井川慶 - Wikipedia
井川 慶(いがわ けい、1979年7月13日 - )は、オリックス・バファローズ所属のプロ野球選手(投手)。
[編集] プロ入り前
大洗野球スポーツ少年団で野球をはじめ、小学生までは右投げ。高校時代も体のバランスをとるために右投げの練習は続けていた。プロ入り後も、オフに帰郷するたび、自らの後輩である大洗の小中学生相手に野球教室を開いている[1]。
水戸商高3年春の県大会、対竜ヶ崎一高戦で、7回参考記録ながら18奪三振の完全試合を達成。しかし夏は腰痛のためほとんど登板機会がなかった。県大会決勝の対茨城東高戦(水戸市民球場)に痛み止め注射をして登板するも、自らのミスなどで4失点し敗退。
甲子園出場はなかったが、「東のドクターK」として一部では名前が知られており、当時川口知哉・能見篤史と並んで「高校生左腕三羽ガラス」と呼ばれた。1997年のドラフト2位で阪神タイガースに入団。この時は日本ハムファイターズも指名を一時検討していたが、先述の腰痛を理由に見送った。高校では簿記2級・英検3級の資格を取得している。
[編集] 阪神時代
1999年5月2日の対広島東洋カープ戦(阪神甲子園球場)に中継ぎで一軍プロ初登板を果たした。5月7日の対横浜ベイスターズ戦(横浜スタジアム)で4回に波留敏夫から初奪三振、5月19日の対広島戦(米子市民球場)でプロ初先発登板し初勝利を挙げるが、なかなか一軍に定着できないシーズンが続いていた。
2001年は野村克也監督から先発ローテーションに抜擢され、4月24日の対読売ジャイアンツ戦(甲子園)でプロ入り後初完投勝利。監督推薦によりオールスターゲームの出場を果たす。最終的に防御率はリーグ2位の2.67と好成績を残したが、打線の援護がなく、チームも4年連続最下位で、9勝13敗と負け越した。防御率2位での負け越しは1991年の今中慎二以来であった。
2002年は監督が星野仙一に代わり、3月30日の対巨人戦(東京ドーム)で開幕投手を務め、3対1で完投、チーム12年ぶりの開幕戦勝利に貢献した。夏場に調子を落とすも、206奪三振で最多奪三振のタイトルを獲得した。
2003年も開幕投手を任され、黒星を喫したものの、6月・7月に4戦連続完投勝利し、8月2日の勝利で12連勝を記録した。連勝中はゲンかつぎとして髪を切らなかったため、約3か月間も髪を伸ばしっぱなしになりアフロヘアーのような髪型になったという。最終的にセ・リーグでは1999年の上原浩治以来の20勝投手となり、阪神を18年ぶりのリーグ優勝に導いた。同年オフまで快適という理由で長らく寮生活を続けていたが、退寮指令を受け、梅本正之寮長の定年を節目に退寮。寮では模範生で、途中からは若手の講師役にも指名されていた。
2004年10月4日の対広島戦(広島市民球場)でプロ野球史上71人目となるノーヒットノーランを達成した。同年オフにポスティングシステムでのメジャー移籍を希望するが、球団との交渉が決裂。自費キャンプとなり、否定的な報道や一部世論の反発に遭った[2]。以降毎年オフに球団に対しポスティングによるメジャー移籍を希望することになった。
2005年8月23日の対広島戦(広島市民球場)で1,000投球回を達成。このとき井川が連続三振を奪った勢いで捕手の矢野輝弘が記念ボールをスタンドに投げ込んでしまい、ベンチ前にほとんどの選手とコーチが出て受け取ったファンに頭を下げ、記念ボールを返してもらった[3]。
公衆衛生上の高血圧のミシガン州部門
2006年には5年連続2桁勝利を達成。球団はそれまでの貢献を考慮し3年越しの希望であったメジャー移籍を容認し、11月10日にポスティングによるメジャー挑戦を表明。11月29日にニューヨーク・ヤンキースが2,600万194ドル(当時のレートで約30億円)で独占交渉権を得て落札し、アーン・テレムを代理人として、12月27日に5年2,000万ドル(2011年まで毎年400万ドル)+出来高で契約。渡米直前の2007年2月には結婚を発表した。
[編集] アメリカ時代
2007年4月7日のボルチモア・オリオールズ戦(ヤンキー・スタジアム)でメジャー初登板。5回8安打4四死球2本塁打7失点で降板したが、その後ヤンキースが逆転したため勝ち負けはつかなかった。4月18日のクリーブランド・インディアンス戦(ヤンキー・スタジアム)で、6回5安打5奪三振2失点でメジャー初勝利を挙げるが、その後も投球フォームや制球が安定せず中継ぎへ降格。4月28日のボストン・レッドソックス戦では、先発投手が負傷降板した後、緊急登板ながら6回無失点と好リリーフし、メジャー2勝目を挙げた。この好投が認められ、先発復帰するも、5月7日にマイナーに降格。6月22日の試合でメジャー復帰したが、7月28日に2度目のマイナー降格。9月22日の試合でメジャー再復帰し中継ぎとして登板。25日には昇格後初めて先発し5� �を0点に抑えたが、勝ち星はつかなかった。結局この年は2勝3敗、防御率6.25、WHIP1.67と不振に終わったが、実力を評価する声は多く、「ヤンキース以外なら活躍できる投手」[4]、「ナ・リーグに行けば大化けする」との声も上がり[5]、サンディエゴ・パドレスが「年俸を全て引き継ぐ形で獲得したい」と積極的な姿勢を示したが、ヤンキースがポスティングの入札金の分担まで要求したため破談となった[4]。
2008年は前年の不振により開幕前から先発としての構想には入っておらず、スプリングトレーニングでは中継ぎとしての起用が続いた。若手起用のため、開幕はAAA級スクラントンで迎えた。5月9日にメジャー昇格し、その日のデトロイト・タイガース戦に先発したが、3回を11安打6失点で敗戦投手となり、15日にマイナー降格。6月28日に再昇格し、ニューヨーク・メッツ戦の9回に登板し、1回を無失点に抑える。しかしその翌日に再びのマイナー降格を通告された上、7月26日にはメジャー契約を解除され、40人枠から外れた[6]。本人は「メジャーリーグでローテーションを守れるピッチャーを目指して頑張りたい」と語ったが、結局この年はスクラントンで14勝6敗、防御率3.45、WHIP1.19の好成績を残すものの、メジャーリーグでの勝ち星を挙げることはできず、オフに過去の反省と今後のチーム編成について会見したGMブライアン・キャッシュマンからは「井川の獲得は失敗だった」とコメントされるなど厳しい評価が続いた。
マンホールの痛み
2009年はスプリングトレーニングに招待選手として参加し、15回3分の1を投げて1失点とまずまずの出来だったが与四球率5.35と四球が多く、3月23日にマイナー行きを通告され、2年連続で開幕をスクラントンで迎えた。スクラントンでは前半戦は9勝4敗、防御率4.04、WHIP1.24の成績を残していたが、後半戦は1勝4敗、防御率5.66、WHIP 1.70と不調に陥った。最終的にはチーム最多の10勝8敗、防御率4.15、WHIP1.41の成績を残したが、メジャーでの登板はなかった。12月にはグリーンカードを申請中であることを明らかにした[7]。29日には地元紙の『ニューヨーク・ポスト』が掲載した「過去10年のニューヨークのプロスポーツ選手ワースト10」において1位に選ばれた[8]。
2010年もスプリングトレーニングに招待選手として参加したが、中継ぎとして2回3分の2を投げて失点5, 防御率16.87、WHIP1.88と振るわず、3月13日にマイナーに降格[9]。スクラントンでは先発として10試合に先発し防御率3.96、WHIP1.24の成績を残したが、リリーフでは12試合の登板で防御率5.00、WHIP1.65と結果を残せなかった。このシーズンもメジャーでの登板はなく、2年連続でメジャーの試合に出場することはなかった。オフには前年に申請していたグリーンカードを取得し、ヤンキースとの契約終了後もアメリカでのプレーを希望していることを明らかにした[10][11]。
2011年はキャンプからマイナーでスタート。3月14日には故郷の茨城県大洗町が東日本大震災で被災したことで一時帰国するが20日に再渡米し、開幕はAA級トレントンで迎えた。4月21日にはスクラントンでAA級リーハイバレー戦に先発するも、その試合以外はトレントンで5先発を含む11試合に登板し、6月12日にスクラントンに昇格。その日のAAA級シラキュース戦に先発し、球団史上最多タイ記録となる73先発を記録した[12]が、トレントンで故障者が続出したことに伴い17日にトレントンに再降格した[13]。26日にはスクラントンに再昇格するも、2試合に先発した後に再降格し、左ひじの張りで故障者リスト入りする。8月中旬に復帰し、最終的にリリーフではマイナー通算10試合の登板で1勝0敗1セーブ、防御率1.90、WHIP1.01の成績を残したが、先発では同10試合の登板で2勝2敗、防御率4.72、WHIP1.57の成績に終わった。アメリカでは成績を残せなかったが、要因としては球団側の信頼度の低さと獲得の際の調査不足が原因であったという。[14][注釈 1]
[編集] オリックス時代
2012年3月28日にオリックス・バファローズへの入団を自身のオフィシャルサイトにて発表し、6年振りに日本復帰が決まった[15][16][17]。背番号は阪神・メジャー時代と同じく29となった[18]。5月9日に一軍登録されると、同日の福岡ソフトバンクホークス戦(ほっともっとフィールド神戸)に、先発投手としてNPBの一軍公式戦へ2032日振りに登板した。しかし、4回表に江川智晃へ2球目を投じたところ、右太股の違和感(痙攣)を訴えて降板。3回2/3を1失点という内容で、敗戦投手になった[19]。
子供の肥満の証言
[編集] プレースタイル
オーバースローから最速151km/hのストレートとフォークボールのように落ちるチェンジアップ[20]、スライダーが武器。ヤンキース移籍後はカットボールやツーシームも投げるようになった[21]。ボールの威力自体はメジャーでもトップクラスとの評価を受けており、2007年には「芯でとらえられる率(ハードヒット・アベレージ)」がマリアノ・リベラに次ぐチーム2位の.196をマークした[4]。
スクラントンでのチームメイトらは「ケイはビッグリーグで投げるべきピッチャー」[22]、「シェリー・ダンカンやケイのように、上でやれる力はあっても、そういう機会に恵まれないことだってある」と語っていた[23]が、フランク・トーマスから「(井川は)間違いなくメジャー級の球を持っているよ。特にチェンジアップはいいね。ただ、どんないい球でも投げるコースを間違えてしまえば、このリーグではその報いを受けることになっているんだ。井川の場合も、四球が多いといった制球力の問題よりも、コースが甘くなることが最大の問題だよ」と言われ[24]、ジョー・トーリからも「球は悪くない。問題は制球力」と言われる[25]ように、コマンド(狙ったスポットに投げる能力)の不足や日本時代から高かった被本塁打率の高さなどによりメジャー昇格を果たせないでいた[26]。
デーゲームを苦手としており、登板時はサングラスを着用する。
愛称は出身地である茨城の方言にちなんだ「ダッペ」「イギー」「エース井川」。
コントロールが悪かった新人時代、当時の監督である野村より「ダーツの的に当てるイメージで投げろ」とアドバイスを受けたことがある[27]。自らも2万円のダーツボードを購入している。
体のケアには敏感である。入団当初からオフには添田専属トレーナーとトレーニングをしている。毎試合後アイシングなどを深夜まで入念に行う。食事はコンディションを保つため専属の料理人に作ってもらっていた。また、タバコは吸わず、コーヒー、炭酸飲料も飲まない。下戸であるためアルコール類も口にしない。2003年のリーグ優勝の時には、翌日が先発だったため、ビールかけに参加しなかった。ただし、この件に関してはチームの和を乱すとして当時の星野監督から叱責を受けた。2005年のリーグ優勝の際のビールかけには参加したものの、途中でダウンしてしまった。
経済的にしっかりしており、阪神時代には新幹線で移動の際に球団が用意する「のぞみ」グリーン車のチケットをわざわざ「ひかり」の自由席に自分で変更し、差額を貯金していたほど。この点について金本知憲が井川に直接確認したところ「当然じゃないですか」と答えたという[28]。『週刊トラトラタイガース』で、藪恵壹と一緒にゲスト出演したとき、藪に「月に1万円しか使わないケチ」といわれたことがある。
中学時代は、サッカー部があれば野球部に入っていなかったかもしれないほど、昔からサッカーが好きだった。2003年の優勝旅行の行き先にチャンピオンズリーグが見たいがために欧州を希望したほどである。入団前は井川の実家のある茨城県をホームタウンとする鹿島アントラーズのファンだったが、阪神入団後はガンバ大阪のファンとなり、2006年新春に宮本恒靖と特別番組で対談した。
茨城県出身だが、納豆が苦手である。
将棋は初段でチーム内外(今岡誠、古田敦也、吉野誠、広澤克実、桧山進次郎、安藤優也など)で対局、ピッチャーでリーグを作ったり、登板前に気持ちを落ち着かせるためロッカーで詰将棋をしていた。2006年のオフには棋王戦の本戦準決勝(羽生善治-深浦康市)を観戦。番組企画で投了図からのかなりのハンデ戦であるが森内俊之名人に勝利。2007年1月、日本将棋連盟は日本国外での将棋普及のため「将棋親善大使」に任命、初段の免状と委嘱状を贈呈した。
ゲーマーの一面もあり、2012年現在はトレーニング中の気分転換としてセガの『WORLD CLUB Champion Football』(WCCF)をプレイすることが多い。2012年にはWCCFの第16回 JAPAN WINNER'S CHAMPIONSHIPで関東ブロック[29]のエリア大会を勝ち抜き全国大会に進出したほど[30]。
[編集] 詳細情報
[編集] 年度別投手成績
- 2011年度シーズン終了時
- 各年度の太字はリーグ最高
[編集] タイトル
- NPB
[編集] 表彰
- NPB
[編集] 記録
- NPB投手記録
- 初登板:1999年5月2日、対広島東洋カープ6回戦(阪神甲子園球場)、5回表に2番手で救援登板、1安打2四球1死球3失点で降板
- 初奪三振:1999年5月7日、対横浜ベイスターズ6回戦(横浜スタジアム)、4回裏に波留敏夫から
- 初先発・初勝利:1999年5月19日、対広島東洋カープ8回戦(米子市民球場)、6回0/3を2失点
- 初完投勝利:2001年4月24日、対読売ジャイアンツ4回戦(阪神甲子園球場)、9回1失点
- 初完封勝利:2001年8月17日、対横浜ベイスターズ20回戦(横浜スタジアム)
- 初セーブ:2002年10月12日、対広島東洋カープ28回戦(広島市民球場)、8回裏に3番手で救援登板・完了、2回無失点
- 1000投球回数:2005年8月23日、対広島東洋カープ14回戦(広島市民球場)、7回裏3死目に前田智徳を空振り三振で達成 ※史上304人目
- 1000奪三振:2006年4月14日、対広島東洋カープ3回戦(阪神甲子園球場)、9回表に梵英心から ※史上119人目
- NPB打撃記録
- 初安打:1999年6月1日、対横浜ベイスターズ9回戦(阪神甲子園球場)、3回裏に福盛和男から左翼へ二塁打
- 初打点:2001年5月10日、対横浜ベイスターズ7回戦(横浜スタジアム)、7回表に米正秀から投手前スクイズ
- NPBその他の記録
[編集] 背番号
- 29 (1998年 - 2008年、2012年 - )
- ^ 調査不足に関しては、週刊ベースボール2012年6月4日号のインタビュー記事で井川による指摘があり、入団後に「得意な球は何か?」と聞かれたというエピソードがある。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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